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多文化共生スタディツアーを終えて(木村)

 こんにちは!

インターン生の木村です。

 

1125日から26日にかけて多文化共生スタディツアーを行いました。

スタディツアーを通して学んだことや考えたことについて書かせていただきます。

 

スタディツアー初日。

 

1つ目のアクティビティは、日本料理の親子丼とミャンマー料理のモヒンガーを、チームになって一緒に作って食べるというものでした。私たちのチームは、日本の大学生3人とミャンマーから来たばっかりの日本語学校に通うミャンマー人の方1人でした。料理には多くの共同作業が伴います。ゆえに、チーム内での積極的なコミュニケーションが必要不可欠でした。コミュニケーションを通して、今回、ミャンマーの方と同行支援では経験できないつながりを築くことができました。また、同じゴールに向かって何かを一緒に成し遂げることにより、私たちは自然と仲を深めることができました。言語の壁はありましたが、食にまつわるアクティビティ(料理や食事)の際に、言語の壁はそこまで気にならないと実感しました。

 

料理体験の後、日本に来たばかりのミャンマー人参加者向けに鎌倉の観光プランを考えるというアクティビティがありました。まず、私たちは、日本のいいところを海外と比較しながら見つけだしました。ここで私が興味深いと思ったのが、「比較方式」です。私たちは社会において客観的に物事を捉える視点を求められることがありますが、客観的と言われてもなかなか自分の中で落とし込むことは難しいです。例えば、客観的と聞いて冷静さをイメージされる方もいると思いますが、必ずしも冷静さが客観的な視点につながるとは思えません。では、どのようにして客観的な視点を持つことができるのでしょうか?私は、物事を「比較」することが大切だと考えます。比較することで、比較対象が持っていることや欠けていることが浮き彫りになり、「当たり前」だと思っていたことが、からなずしも当たり前ではないということに気づくことができます。私たちは、このように比較や議論を通して出た日本の魅力をもとに、歴史的背景なども調べながら鶴岡八幡宮や、小町通り、さらに大仏や長谷寺など日本の四季や食を堪能できるプランを立てました。

 

スタディツアー2日目。

 

初日の後半に作ったプランをもとに、ミャンマー人の方4名と鎌倉を観光しました。実際にミャンマー人の方と観光していくうちに、私たちが初日に考えたプランは、ゲストのミャンマー人の文化背景や生い立ちなどを考慮できていなかったのかもしれないと思い始めました。例えば、ミャンマーから来日したばかりの方は、小町通りの食べ歩きに対する金銭的な抵抗感を持っていました。また、ゲストの方々は仏教を信仰しているため、鎌倉の大仏にもっと時間を割きたいという様子も伺えました。今回の鎌倉案内では、自分の金銭感覚が必ずしも一般的ではないということ、また「楽しい」という価値観は、バックグラウンドや文化背景によって異なってくるということを痛感しました。つまり、自分が相手によかれと思い、振る舞う「おもてなし」の心は、相手が喜んでくれても必ずしもお互いが同じ感情を共有できているわけではないということです。

 

今回の多文化共生スタディツアーを全体的に振り返って。

 

今回のスタディツアーから少し話がずれますが、私は少し前に京都に旅行へ行きました。そこでは日本語がほとんど飛び交っておらず、海外からの観光客で埋め尽くされていました。今回、鎌倉に行った際も、海外からの観光客がかなり多かったです。経済的な側面から見ると、コロナが明け、観光客が増える中、円安によりインバウンド消費に期待が膨らんでいます。また、日本では労働力不足により海外の方が働き手として日本を支えているという現状もあります。つまり、日本における「多様性の促進」は避けられないものになってきているのです。そこで考えなくてはいけないのが、「多様性」とは何かということです。多様性という概念は抽象的でとても捉えにくいです。しかし、世界は多様性をうたっており、日本も法律で「合理的配慮」を整備するなど、多様性を担保しようとしています。無論、世界も日本も多様性という側面ではまだまだ足りていないところがたくさんあります。私は、多様性を実現するためには、個々人一人一人がこの多様性というものを自分なりに噛み砕けないと不可能だと思います。

 

そこで、ここで私が考える多様性を共有させていただきます。

 

私は、多様性とは国や文化背景が異なる人が集まっている状態だけでなく、自分の身の回りからでも捉えられる概念だと考えます。つまり、人が二人以上集まれば多様性は生まれるということです。しかし、ここで注意しなくてはいけないのが、対等な人間関係でない限り、多様性は実現できないということです。ですが、対等な人間関係はそう簡単に構築することができません。つまり、人間関係が構築されると誰かの解釈が普遍的な事実として共通理解の基盤を作る傾向にあるということです。それは人という単位だけでなく、集団という単位や国という単位で捉えても同じです。ゆえに、様々な価値観が存在し、事実の捉え方が異なる世界で、事実や正義がひとつにしかないように思えてしまうということがげんに起きてしまいます。だから、私は声を上げれない人が「声をあげる」こと、そしてその声をあげるのを支えることが大切だと考えます。そしたら「誰かが取り残されてしまう」状況を「みんなが幸せ」な世界に変えれるかもしれないと信じています。

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コメント: 1
  • #1

    大澤照枝 (木曜日, 11 1月 2024 16:56)

    多様性の共有や実現について、考えを聞かせていただき学ぶことが多くありました。 私も自分でしっかり考え、料理もいろいろな人と体験してみたいと思います。